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コラム

2025年4月7日

野中郁次郎先生から学んだこと


一般社団法人経営研究所
所長 藤本 隆宏


 故・野中郁次郎先生は、私より20歳年上の大先輩だが、日本の経営学と経営者に対し常に本質的な方向性を示し続けた、唯一無二の存在だったと言える。
 先生は「私は富士電機10年」とよくおっしゃっていた。10年のサラリーマン生活の後、研究者の道を選び渡米されるが、富士電機の10年間に何をされ、何を考えておられたのか、とても興味がある。豊田紡織時代の大野耐一さんと同じぐらい興味がある。私も大学卒業後、数年間民間企業にいた人間なので、野中先生は若い頃からロールモデルであられた。
 野中先生のデビュー作は『組織と市場』(1974年)で、私の大学入学の年だ。当然、学生時代に読んでいたが、これは、環境の情報処理負荷と組織の情報処理能力のマッチングを考えるコンティンジェンシー理論であり、当時の欧米の主流的考え方であった。
 ここから、1978年の野中・加護野・小松・奥村・坂下著『組織現象の理論と測定』ごろまでは、統合的コンティンジェンシー理論の構築が主題であり、欧米の組織論を徹底的に吸収している。独自の経営学を構築された野中先生の土台の所には、こうした、欧米主流経営学の徹底的な吸収があり、学問的アプローチとしては王道であったと言える。
 野中先生と最初にお会いしたのは、1983年に伊豆で行われた国際コンファレンスだったと思う。私はここで技術システム論の論文を発表し、それがサラリーマンから学者に変わるきっかけとなった。そしてここには、恩師の土屋先生をはじめ、野中先生、伊丹先生、加護野先生、竹内先生、奥村先生、同世代の金井先生、米倉先生、海外からは後の師匠であるクラーク先生、ポーター先生、スペンス先生など、すごいメンバーであった。野中先生は既に日本チームの中心メンバーの1人であり、海外の一流学者と対等に話をする野中先生はすごいなと、見上げる存在であった。
 この国際会議がきっかけで、私は、三菱研究所からハーバードビジネススクール博士課程に移り、クラーク教授のもとで製品開発論の研究をやっていたが、その頃には、野中先生・伊丹先生・加護野先生・土屋先生などが、かなりの頻度で、ハーバードやMITのあるボストンに来られていたので、その際に、野中先生にも時々お会いしていた。
 私がボストンにいたのは1984年から90年頃だが、最初来られた時は「藤本くんは製品開発の情報処理論か。しかしこれからは、情報処理だけではダメだ。情報創造を考えろ」とおっしゃったので、次にボストンに来られた時に「確かに製品開発は情報創造なので情報創造と言い換えました」と言って、褒めてもらえるかと思ったら、「藤本くん、情報は古いよ、これからは知識創造でなきゃいかん」とおっしゃるので、ちょっと困った。私は技術生産管理論だったので、金型が設計情報を持っているとは言えるが、金型が知識を持っているとはさすがに言えないので、すみません分野が分野なので、情報でやらせてください、と申し上げた記憶がある。
 まさに、この頃が、世界的な理論となる野中先生の知識創造論が形成されていた時代だと言って良いだろう。その意味で、私が最も影響を受けた野中先生のご本は、実は1985年の『企業進化論』である。私自身、後に『生産システムの進化論』を書き、進化経済学会長もやるのだが、野中先生の戦略進化論の影響も大きい。
 『企業進化論』は、野中先生ご自身の理論の発展過程をたどることもでき、同業の若手研究者としては勉強になった。山の3合目あたりを彷徨していた当時の私から見れば、はるか先、山頂の少し手前の8~9合目あたりを登り続ける野中先生の足跡を追いかけることの方が魅力的であった。実際、この本の第4章「戦略創造の組織」では、野中理論の原点である70年代の「情報処理」概念とコンティンジェンシー理論が語られ、そこから自己組織化概念、ホンダ製品開発の事例、企業進化の理論を経て、第6章で「情報創造」が登場する。しかし1985年のこの本には、まだ「知識創造」は出てこない。まだ「登山中」の本であったわけだ、
 野中先生のもう一つの大きな仕事は、太平洋戦争における日本軍の戦略的失敗を分析した「失敗の本質」から「知略の本質」に至る、防衛大学校の方々との共同研究である。野中先生は従軍経験のある世代ではないが、強烈な空襲体験は持っておられたとお聞きする。
 余談だが、私の父(藤本威宏)は1920年生まれで、一橋大学卒業直後にブーゲンビル島にて従軍、25歳で同島撤退戦を指揮したときの日記をもとに「ブーゲンビル戦記」を書き、防衛大学校でも教材に使われ、後にアメリカ人著者Jannotta氏の戦記「Extraordinary Leaders」でも取り上げられた。父は私が14歳の時に亡くなったが、ブーゲンビルでの苦労話を子供の私によくしていて、私にとっては本物の「実践知」を学ぶ機会であった。
 さてその後、野中先生は「知識創造論」を完成させ、SECIモデルが世界的に有名になったが、そのころ、私も野中理論の実証に少し貢献できたかな、ということがあった。当時の野中先生は、実はトヨタよりホンダがお好きで、事例にもホンダがよく登場していた。ある時先生が、「どうもトヨタは好きになれんのだよなあ」とおっしゃるので、私がよく見ていたトヨタの生産現場について、「リーダーが作業標準を常に見直し、内面化し、新しい生産性向上仮説を立て、実験し、それを新しい作業標準に再構成し、メンバーが内面化する、ということをやっていますが、あれはSECIそのものじゃないですか」と申し上げたところ、「ほうそうかね」とおっしゃって、その後、気のせいか野中先生のトヨタ・ケースが増えたように思われる。
 こうして竹内弘高先生との名著『知識創造企業』で世界的存在となって以後の野中先生は、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」などに戻って、フロネシス(賢慮)、実践知、共通善などを重視する徳の経営を唱道された。バブル崩壊後、ポスト冷戦期の日本企業の経営者の多くが萎縮経営に陥り、あるいは米国式経営への浅薄な追随(米国に長くいて、いわば本物を見てきた私から見ればそう見えた)に流れる中で、日本にまだ存在した卓越した経営者の考えを凝縮し、徳や品格のある経営への回帰を、生涯主張し続けられた。
 私はそのころ、2004年に「東京大学ものづくり経営研究センター」の設立にセンター長として関わり、産業現場の経営学・経済学に集中していたので、野中先生のご研究の発展を仰ぎ見ながらも、少し遠いところで産業学の研究をしていたと思う。私のものづくり経営学もアリストテレスの哲学体系が一つのベースだが、私は「形而上学」が引用の中心で、最終的にフルオネシス(賢慮)が終着点と思いながらも、基本的にはテクネー(ものづくり知)の探求に集中していた。野中先生は常に先を行かれている感じだ。
 ある時、野中先生が「藤本くん、私もいろいろな考えを発信してきたが、人間、一生のうちに、これはと皆に伝えられるコンセプトは、多分一つぐらいだよ。私は知識創造だ。君は何かね」とおっしゃったことがある。私の場合、おそらくそれは「設計情報の転写」ではないかなと思う。それが私の「ものづくり経営学」あるいは「産業学」でもある。
 私のこの仕事も、今年あたりで大体一段落して、野中先生に「半世紀近くかかってようやく先生の領域に近づきました」とご報告できそうだったのだが、急のご逝去、本当に残念でならない。少なくともあと十年はご指導いただきたかった。日本・世界の経営学にとって大きな喪失である。
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